ケンブリッジ通信 22号  発信:志村博  フォト・エッセイ・シリーズ Cambridge Journal


第23号 ・ 2005年6
月15日発信 ・ 15 June 2005 Issue・ Vol.23


1975年以降、英国ケンブリッジに在住し、版画作家、映像作家、エッセイストとして
創作活動を続ける志村博
が、
映像と文章で綴る ウェブ・サイト・エッセイ・シリーズ





詩人“ルパート・ブルック”のカレッジ風景




“花の饗宴”休耕した畑に競う 作物と野草




美しい村の中心で出会った ケム川の源泉








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2005年は、グランチェスターを愛した詩人“ルパート・ブルック”没後90周年で、“節目の年”である。
ルパート・ブルック協会は、今年の
“聖ジョージの日”(イングランドの聖人
)イベントを、半年前から
準備してきた。 去年までのイベントは、ブルックが学部を卒業した後に移り住んで、大学院時代を
過ごし、その後も
心の故郷であり、詩のタイトルになった
村、“グランチェスター”で開催されてきた。

今年は、ブルックがケンブリッジ大学の学部時代を過ごした“キングス・カレッジ”の中で行われた。
彼の学部時代は必ずしも幸せではなかったかも知れない。 頭脳明晰で、人望も高く人気者だっだ
ブルックは、当時カレッジ内で流行った“政治活動”に巻き込まれ、抜群だった成績も、落ち込んで
しまう。 精神的にも疲れ果てたブルックは、指導教官の勧めで、グランチェスターに移り住み、蘇る。

4月23日、
ケンブリッジ大学のキングス・カレッジにて、午前11時半から“特別イベント”は始まった。
協会のメンバーとゲスト約60名は、昼食会の後、前半のプログラムが行われるケインズ・ホールに、
移動して、彼の文学に因んだ講演や
音楽を、約2時間にわたって楽しんだ。 後半のプログラムは、
少人数のグループに分かれ、ブルックが“
カレッジ生活”を送った“学寮”内の様々な場所を訪ねた。

キングス・カレッジは、ケム川沿いに並ぶ伝統的なカレッジであり、礼拝堂は、その壮麗な建築が、
世界的に有名で、ケンブリッジの“シンボル”
のようになっている。 観光客には、必見のスポットで
あるが、構内のほとんどが学生や教官が暮らすプライベートな空間で、部外者が立ち入ることは
できない。 今回のイベントのほとんどは、ブルックが学び暮らした“プライベート空間”で行われた。

事前にキングス・カレッジから、イベントの撮影許可を得ていたが、公開を認められない場所も多く、
残念ながら、サイトで紹介できる写真は、ごく限られている。 でも、私にとって、
新鮮で、興味深い
1日だった。 かつて、
ブルックが暮らしていた寝室や居間は、現在は別の学生が使っているのだが、
私たちは入室が許された。 窓からは、ブルックが見ていたであろう同じ風景が、今も広がっていた。



前半プログラムが行われた“ケインズ・ホール”(Keynes Hall)は、イギリスが生んだ近代経済学の祖、
メイナード・ケインズ(Jone Maynard Keynes)に因んで名付けられた小ホールで、ケインズの
胸像が
壇上の端にある。 “ブルック”も“ケインズ”も、20世紀の始め頃、共にキングス・カレッジに属していて、
“ヴァージニア・ウルフ”や“E.M.フォースター”たちと一緒に、グランチェスターで集った仲間であった。




ブルックが学生時代に住んでいた部屋の内部は、現役の学生が生活しているプライベートな空間で、
室内撮影は遠慮したのだが、寝室と居間が別室で、両方の部屋から中庭が見下せる間取りである。
窓からの風景は素晴らしく、通常は見られないアングルから、チャペルや門楼を、間近に撮影できた。
部屋への階段も、優美な窓や手すりがある“螺旋階段”で、何世紀も変らない“カレッジ風景”である。






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ケンブリッジがある“東アングリア”
地方は、イギリスでもっとも肥沃な土地で、ヨーロッパでも有数の
穀倉地帯である。 ケンブリッジ周辺の一帯も、ケム川沿いのメドーを除いて、耕作地が延々と広がる。
ケンブリッジ市郊外の我家も、
数分歩いて住宅地から出れば、そこは広い野畑が連なる場所に出る。
地形や気候、農業形態が違うので、イギリスと日本は田園風景が異なり、四季折々興味が尽きない。

この地域の農業は、完全に機械化されていて、人力で畑仕事をすることはない。 傍から見ていると、
ある日突然、大型の耕作機械や収穫機械が現れて、耕し、種を撒き、収穫してしまう。 畑の風景は、
1日で変ってしまう。 近くに農場はなく、誰が畑の持ち主なのか、どこから機械が来るのか分からない。
去年の晩夏に刈り入れをしたあと耕されずに、
そのままの状態で休耕している広大な畑を、見つけた。

作付け中は、畑の中を無断で歩くことは出来ないが、収穫後から、次の作付けまで、散歩や近道で、
立ち入ることができる。 去年の秋以降、新散策ルートとして、朝の風景や夕焼け空を撮影するために、
この休耕畑の中を歩き回った。 すぐ近くをケンブリッジとロンドンを結ぶ鉄道線路が走り、色鮮やかな
列車が、時折り
通り過ぎる。 広い野を、空を見ながら歩くのは面白く、大海原を進むような感じがする。

この1年間で四季は巡り、野畑はゆっくりしたペースで、表情を変化させていった。 作付けされた畑と
違う様々な彩りを、季節の進行と共に眺めてきた。 秋から冬にかけて、刈り残された麦穂の茶色と、
麦の新芽の緑色が混ざった2色の配合であったが、春の訪れは、休耕畑に新たな色彩をもたらした。
元々畑に植えられていた麦や菜種に混ざって、どこからか飛んできた野草の種が育ち花を咲かせた。

始めは、麦の間から“菜種”が伸びて黄色い花が一面に広がった。 しかし、菜種畑とは違い、黄色は
まだらで、
密度も高さも一定しない。 同じ品種のはずなのに、概して背丈は低く、開花時期が長い。
その“菜の花”の間からは、次々と野生の花が咲き始めた。
存在を誇示する花だけでなく、ひっそりと
他の花々に埋もれるように咲く花、地味な色の花もある。 そして、
野花の種類と数の多さに驚いた。



畑野は自生した作物や野草が入り乱れて茂り、地図を広げたような平面構成になった。 麦や菜種の
海原に、島のようなアザミやパンジーの群落があり、その間を歩きながら地理を憶え、個々の群落の
成長や開花を、見守る。 耕されなかったので、地中に眠るポピーは一斉発芽せず、一輪咲きである。
全体的に黄色の花が多く、朱色のポピーや赤紫のアザミが点景になって、遠目にも浮き立っている。



麦の合間に覗くカモミールやキンポウゲの種類、刺だらけの葉や茎を大きく伸ばし花をつけるアザミ類、
この畑野だけでも、幾種類もの亜種が見られ、名前を個々に調べるのは大変な作業になりそうである。
まして、日本で同種の植物が一般的でないと、日本名で紹介するのも難しい。 いつまで、この休耕が、
続くのか定かではない。 突然、耕作機械が現れて、元の畑に戻ってしまうのも、そう遠くはないだろう。





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国際的な学園都市ケンブリッジを流れる“ケム川”は、中世水上交通の重要なネットワークであり、
ケンブリッジ市は、大学が設立される13世紀以前から、ケム川最上流の内陸港として栄えていた。
しかしながら、川としては小規模な川で、ケンブリッジ市から北に約70kmのキングス・リーン市を、
河口とするグレート・ウーズ川の支流の1本に過ぎない。 そのケム川を遡ると、さらに様子は変る。

ケンブリッジ市内から、ケム川を3kmほど遡るとグランチェスターに到る。 この僅か3kmの行程で、
ケム川は、“カナル・ボート”では航行不可の狭い川幅になり、野を蛇行しながら、ゆっくり流れる。
グランチェスターを過ぎると、ケム川上流は、南東と南西に分かれる。 その先を2人乗りカヌーで、
遡ったことがあるが、両岸からの茂みに阻まれて、次の村に到達する前に、断念して引き返した。

以前から、ケム川の上流域には興味があった。 川に沿って、美しいイングランドの村々が連なり、
そんな村々に住む作家たちの手入れされた庭先を流れる“小川”を見て、羨ましいと思っていた。
そして、このようなイギリスの河川の水源は、どのような光景なのか興味を持った。 地図を広げ、
枝分かれする上流を辿り、分水嶺域を探した。 その1ヶ所を見る絶好の機会が、突然やってきた。

今年の4月、ケンブリッジから南西方向30km辺りに広がる丘陵地帯を、ドライブしていた時だった。
主要道路から離れ、中世の佇まいが残る村の1つに、車を乗り入れた。 村の名前はアシュウェル。
村の中心近くの家の前で停車したとき、小さな池が斜面の下に見えた。 しばらく、覗いていたら、
家から人が出てきたので尋ねた。 “泉”だそうである。 駐車してよいとのことなので、見に行った。

そこは透明な水を湛えた浅い小さな池があって、道がある側の斜面の一角から水が湧き出ていた。
池の周りには、歩けるような小道があり対岸に渡るための飛び石が、心地よい配置で並んでいる。
春の日が澄んだ水に反射して、静かで美しいスポットだった。 反対側からは小さな流れが始まり、
近くに小判型の案内板があった。 それを読んで驚いた。 ここは、まさにケム川の“源泉”であった。



村の名前アシュウェル(Ashwell)は、“トネリコの泉”の意味になる。 青銅器時代から、この泉を中心に
集落があったらしい。 土器の破片などが今でも出てくるそうである。 それ以降、この泉からの流れは、
生活用水としてだけでなく、丘陵地帯では幾つもの水車を回し、牧場や畑を潤し、19世紀の前半から、
ビール工場もあって、40年前まで泉の水で醸造されていた。 そして、30年前、泉は村に寄贈された。





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