英国ケンブリッジ市に在住して、シルクスクリーン版画や映像アーティストとして創作活動している志村博が、
  雑誌などに最近発表した 学園都市ケンブリッジや、多くの文化人を育てたグランチェスターに関するエッセイの紹介ページ。



  目次

  ●ルパート・ブルックが愛したティールーム物語 /英国特集/スチュワード・コミュニケーションズ

   春夏秋冬の贅沢 「移りゆく季節の中で」 /イギリス留学事典2007/アルク

   「ケンブリッジ」 私の運命を変えた街と大学/イギリス留学事典2005/アルク

  猫好きアーチャー波/新潮社

  在英29年の創作活動を支えた「構成学」 構成学の展開U日本デザイン学会

  ティー・ガーデン「ジ・オチャード」GOR/メディカル パースペクティブス

  詩人ルパート・ブルックGOR/メディカル パースペクティブス

  愛のグランチェスターGOR/メディカル パースペクティブス

  頭脳と閃きのグランチェスターGOR/メディカル パースペクティブス

  隣人アーチャー波/新潮社

  ●雑誌などに掲載されたエッセイ全文を紹介していますが、サイト用に付け加えた写真などもあります。
  ●改行位置は文字サイズを “中(M)” に設定して作成されています。




 ルパート・ブルックが愛したティールーム物語

 
 英国特集・第6号/スチュワード・コミュニケーションズ(株)発行/丸善(株)発売
 
2007年3月31日

 特集 こんな旅がしてみたい!
 
「ルパート・ブルックが愛したティールーム物語」
                                 
                            写真・志村 博  文・野村 佳子/志村 博  

 

 学生の声で生まれた果樹園でのティータイム  文・野村 佳子

 「おお、グランチェスター! そこには平和と、神聖なる静寂がある」。
 
かつてこ こに暮らした詩人、ルパート・ブルックはそう詩に謳い、
 
戦場の地において望郷の念 を募らせた。  ケンブリッジから南に約3キロ。
 愛らしい茅葺き屋根の家も残るこの村、グランチェ スターに、ティーガーデン「オチャード」はある。
 名前の通り、そこは果樹園のテ ィールーム。庭のデッキチェアに腰を降ろすと、
 木もれ陽のきらめき、葉ずれの音、 そして緑の風が詩人の言葉となって囁きかけてくる……。
 "There's peace and holy quiet there "ブルックはケンブリッジの学生だったが、
 ティーガーデンの始まりも学生たちが果 樹園の女主人にお茶を所望したのが
 そもそものきっかけだ。果樹の下で過ごすお茶の 時間は噂となって広まり、
 1897年にお店として正式にオープン。20世紀初頭には、 ブルック初め、バージニア・ウルフや
 
E・M・フォスターなど多くの文人たちの集う 場所としても知られることになった。
 その後、閉鎖の危機を経験しながらもそれを乗 り越え、オーチャードは今、
 新たなる実りの時を迎えている。


 グランチェスターへは、ケム川添いのフットパスを歩いて、あるいはケンブリッジ から
 貸し自転車で行くのもいいだろう。もちろんパントに乗って川を下っていくのも 他にない楽しみだ。
 そしてちょうど喉の渇きを感じる頃、村に到着、「オーチャード」 でひと息というわけだ。
 さて、冒頭のブルックの詩はこう結ばれている。 「教会の時計は三時十分前のままだろうか?
 お茶のための蜂蜜はまだあるだろう か?」。 これはかつて村の教会にかかった柱時計が
 2時50分で止まったままだったこ とに由来する。
 詩に謳われたままの穏やかさと静けさに囲まれた幸福なお茶のひとと きは、
 今も変わることがない。

 


 閉鎖の危機を乗り越えて、刻まれてゆくオチャードの歴史  文・志村 博

 初めて「オチャード」を訪れたのは、30年以上も前のことである。
 その後もケンブリッジに住み続けることになった私が、 このケム川のほとりにある
 “ティー・ガーデン”と深い縁で結ばれるとは、 その時、思いもしなかった。
 私がアトリエをグランチェスターに移した1988年は、 過熱気味の不動産ブーム時代で、
 「オチャード」は閉鎖され、 宅地として売りに出されていた。
 まさに、「オチャード」100年の歴史に幕が下ろされようとしていた時、 “ある人物”が、
 自己資金を投じ、土地を買い取り、 「オチャード」を再開させた。 
 その後も、厳しい時代は続き、 難題が降りかかるが、様々な努力で、危機的な状況を脱し、
 完全なる復活を果たす。 その人物はロビン・カラン氏。

 1990年代より、私は彼と意気投合し、 「オチャード」の復活に協力、
 「ルパート・ブルック協会」の設立にも関与してきた。 カラン氏との友情は、今日も続く。
 日々、グランチェスターの野や川辺のメドーを歩き、 「オチャード」でお茶を飲みながら、
 四季の移ろいを映像に収めている。

   

 写真・上: ロビン・カラン氏(左)と私。 2007年3月撮影
 かつて、詩人ルパート・ブルックが住み、現在はカラン氏の自宅である“オチャード・ハウス”にて、



 春夏秋冬の贅沢 「移りゆく季節の中で」
   
 イギリス留学事典 2007年度版/アルク 2006年8月

 巻頭特集 A Wonderful World 春夏秋冬の贅沢
 
「移りゆく季節の中で」
                                 
                                           エッセイ・写真  志村 博  

 2007年版 Cambridge University Press 発行のカレンダーに
 イギリス在住日本人アーティストの作品が採用された。
 30年以上前に日本を飛び出し、イギリスで学び、その後も版画作家・映像作家
 として創作活動をしている志村博さんの写真作品だ。
 自然豊かなイギリス田園の四季を、一緒に見つめてみよう。

  Spring

 

 春の訪れはゆっくりでも、復活祭の頃になれば、明るさも増し、気温も上がる。
 長かった冬の終りを感じ、暖かい陽射しを、全身で受け、人々は野外に飛び出す。
 桜、リンゴの花が咲き誇り、野は春の彩りに包まれる。 一進一退を繰り返し、春は進行してゆく。
 時には風が吹き、雨も降るが、晩春には、突然暑い日が来たりもする。

   

 上・左:近年、郊外の畑では菜種を植える面積が増えた。 菜の花畑は春の色。
 中:早春でも、晴れると、川遊びに興じる人があらわれる。
 右:メドー(牧草地)には、キンポウゲも咲き始め、黄色い花の中で寛ぐ。


  Summer

 

 夏至の頃は、イギリスが最も輝く季節。 朝は4時頃から明るくなり、夜は10時過ぎまで暗くならない。
 気温も低めで、爽やかな風が吹きわたる。 冬とは対照的に光にあふれ、
 野外イベントも、この気候に合わせ、多く行われる。 夏の後半は、すでに初秋の風情が漂い始める。
 実りの季節で、畑では収穫作業が進み、野原は黄金色に変わる。

   

 上:川は人々の憩いの場、特に夏の季節は、パントと呼ばれる平底舟で楽しむ。
 左:麦などの収穫が終わり、刈り取られた畑に空が広い。
 中・右:初夏の野原には、野生の赤いポピー
の花畑が現れる。

  Autumn

 

 イギリスでは、秋は始まりの季節。 新学年が始まり、麦が撒かれ、芽を出す。
 夏の乾燥で褐色になった牧草地も、鮮やかな緑色に変わる。 あれほど賑わった川辺にも、
 静けさが戻り、平底舟が川面で休む。 気温も徐々に下がり、朝の訪れも、日々に遅くなる。
 庭では、リンゴが赤く実り、散歩道には、野ばらの実が熟す。
 木々の葉は、徐々に色を変え、やがて、落葉舞う季節になる。

  

 島国イギリスは、かつて森に覆われていた。 人が定住して切り拓かれたが、
 所々に森が残され、新たな植林もされた。 自然保護林も多く、人々は、散策を楽しむ。
 秋は黄葉が美しく、低い太陽に照られ、ブナの葉が金色に輝く。


  Winter

 

 北国の冬は、暗く長い。
  しかし、北海道より遥か北に位置する割に、寒さは穏やかで、雪が降ることは珍しい。
 木々は葉を落としているが、牧草や芝生は、緑色を保ち、麦は若葉を伸ばす。
 湿度は高いが、積雪はめったにない。 朝方、気温が下がると、
 水蒸気が地上のあらゆるものに凍りつく美しい霧氷現象が見られる。

  

 夏と対照的に、冬の夜明けは遅く、日没は早い。
 冬至の前後では、明るい時間は、真夏の3分の1しかない。
 晴れ間が広がると、人々は自然の中に出かけ、冬のやさしい陽射しを受けて、
 野や、川沿いの小道を歩く。




 「ケンブリッジ」 私の運命を変えた街と大学
   
 イギリス留学事典 2005年度版/アルク 2004年6月

 巻頭特集 オックスフォード & ケンブリッジ essay/P-29
 
  「ケンブリッジ」 私の運命を変えた街と大学 
                                 
                                           エッセイ・写真  志村 博  


  1975年、私はスーツケースと愛用のギターを持って、一人ケンブリッジの駅に降り立った。
 この街に住むことになるとは、その時、夢にも思わなかった。
 当時、東京教育大学(現、筑波大学)大学院でデザインを専攻していた私は、ある国立大学のポストも
 内定し、最後の修士論文に取り組んでいた。 ところが、移転問題で揺れる大学で、突然赴任してきた
 担当教授と大喧嘩の末、論文提出を留保し、ヨーロッパに旅立った。 広く世界を見てみたいという
 漠然とした動機であったが、気まぐれから、この世界的な学園都市ケンブリッジを訪れた。
 街のもつアカデミックな雰囲気、ケム川沿いに展開するカレッジの景観、郊外に広がる
 カントリーサイドの美しさに感銘を受け、しばらくこの街に留まる決意をした。

   

  やがて、冷やかしで訪れたケンブリッジ州立のアート・カレッジ(Cambridgeshire College of Arts
 and Technology)にそのまま入学してしまう。 現在は名称も変わり規模も大きくなったが、
 その時代はおおらかで、突然飛び込んできた東洋の学生を暖かく迎えてくれたのである。
 私は日本とイギリスのデザイン教育の違いを知ることや、教官と学生たちが醸し出すくつろいだ
 雰囲気を楽しんだ。

  その頃、制作したシルクスクリーン版画作品が、王立芸術院(Royal Academy of Arts)夏展に
 入選し、ブリストル国際写真展で金賞を受賞したりする。 気がついたら、私は「アーティスト」に
 なっていた。 3年在籍した学校もやめて日本への帰国を考えていたら、イギリス政府から
 作家として滞在することを許された。 これはめったにあることではなく、ここに留まり作家活動を
 続けることにした。

  ケンブリッジで知り合ったアーティストたちの個性的な生きざまは、私の人生観に影響を与えたが、
 それよりも、私を30年もここに引き止めたのは「ケンブリッジ大学」であった。 活動を続ける中で
 大学人とのつき合いが広がり、この街でなくては出会えなかった人たちは、私の運命を変えていった。
 彼らとの交流は私を未知の世界に引き入れた。 フォーマルホールと呼ばれるカレッジの「正餐」では、
 教授たちと共に一段高いハイテーブルに座り、カレッジチャペルの屋根と天井の石組みに挟まれた
 神秘の空間へも案内された。 そこには映画でしか見ることのないような光景が日常的に
 展開していた。 ケンブリッジの美しい街並みや自然が作品の題材になっただけなく、大学や街の
 歴史を知り、現代も生きる伝統を感じることは、私の創作活動の幅を広げた。
 30年前、この街から受けた感銘は、今も、そして、これからも変ることはない。
 
   

 *巻頭特集「オックスフォード & ケンブリッジ あこがれのAnother Worldをのぞいてみよう!」の
   扉、26-29ページ掲載のケンブリッジ関係写真提供、エッセイはP-29です。



 猫好きアーチャー
   波/新潮社 2003年12月

 
猫好きアーチャー

                                      文・写真  志村 博 (写真はHPのみ)

 
   英国の書店でも、ジェフリー・アーチャー書籍コーナーには『運命の息子』 『獄中記』地獄篇、
 煉獄篇と次々に新作が加えられて、賑やかである。小説以上に波瀾万丈の人生を送る
 元保守党幹部で、人気作家で、囚人のジェフリー・アーチャー氏は、その勢いが衰えるどころか、
 
ますます旺盛である。  

   私の在英期間も、いよいよ30周年を迎えるのであるが、その半分の約15年間は、
 アトリエをケンブリッジ市郊外のグランチェスター、すなわちジェフリー・アーチャー本邸の向かいに
 構えている。 隣人だからと言って、日常的に顔を合わせる訳ではないが、アーチャー家の
 パーティーに招待される機会や、地元の文化的なソサエティーに属している事などから、
 ジェフリー本人や奥方のメアリー、そして二人の息子たちの素顔に触れる事も多い。

   グランチェスターを愛した詩人ルパート・ブルックがかつて住んでいた、現在のアーチャー邸の
 内部、『運命の息子』草稿も執筆していた新しい書斎、そして、手入れの行き届いた美しい庭は、
 私にとっても馴染みの場所になった。

   この15年間は、アーチャー家にとって、激動の時代であった。 事あるごとに、報道陣が門前に
 押しかけるので、それを見て事件の展開を知ることも多かった。 事件の内容は色々に言われるが、
 グランチェスター村の隣人仲間たちは、アーチャー家の味方で、行き過ぎた報道陣の対応を
 たしなめ、不法に駐車する彼らの車両を締め出した。

   約1年の服役期間が経過した頃、初めてジェフリーの一時帰宅が許可された日だった。
 やはり、報道陣が門前に詰め掛けていたのだが、その週末はアーチャー邸の庭では、
 俳優マーク・ペイトンが詩人ブルックを演じる「チャリティー公演」があった。
 
私も邸内にいてイベントに参加していた。 入場は厳しく制限されていたが、
 事前にチャリティー入場券を手に入れ紛れ込んだ報道記者が、カメラを回している私に近づいて
 「ジェフリー・アーチャーは現れるのか?」と探りを入れてきた。 公演が終わり、記者も退散した後、
 庭の一角でティー・パーティが開かれた。 地元の人が多く顔見知りのゲストがほとんどだったので、
 俳優のペイトン氏を囲み談笑していた。 そこには、メアリーや、息子さんも美しい恋人を伴って
 参加していたが、果たして、ジェフリーも現れた。
 ほとんど以前と変らない元気な様子で嬉しくなった。 私の姿を認めたジェフリーは、
 「お前さんだな。うちの猫に餌をやっている奴は」彼の毒舌も相変わらず健在だ。
 「何を言う。やつらはもうおれの猫さ」と、私は切り返した。 ジェフリーは満面の笑みを投げかけた。
 その時、居合わせた他のゲストたちは我々の会話を聞いて怪訝そうな顔をしていたのだが、
 事情を知らなければ、何の事か分からない。 猫とはアーチャー家が飼っている2匹の猫、
 スタンレーとオリバーのことである。 イギリスの古典的なコメディアン・コンビの名前を
 付けられているが、野性的で美しい猫たちである。

   仮出所をして、いきなりの会話がなぜ、猫なのか?

   ジェフリーが収監されて、しばらく後の事だった。 メアリーと会合で同席した折に、突然彼女が
 言い出した。 「うちの庭を撮影しに来ない。今とても綺麗よ」それは、私が制作したTV番組の
 牧場シーンが話題になった後だった。 私は快くこの撮影許可を受諾した。 その数日後、
 見事に晴れ上がった晩春の午後を選び、アーチャー夫妻自慢の庭をビデオ撮影した。
 出来上がった映像をCDに焼き付けメアリーに進呈した。 CDはメアリーによって収監中の
 ジェフリーにも差し入れされた。そのCDには、私が撮影したアーチャー家の愛猫、
 スタンレーとオリバーの写真ファイルが、おまけで添付してあった。
 ジェフリーは刑務所の中で、彼の愛する庭と猫の映像を見たのである。

   もちろん、私はアーチャー家の猫に餌などやらないし、うちの猫にする訳ないのだが、
 アトリエの庭も彼らの縄張りになっていて、毎日のように通ってくる。 メアリーもジェフリーも
 猫たちが道路を渡るのを心配しているのだが、平然とやってきては狩りをして帰って行く。
 私とは大の仲良しで、写真のモデルにもなってくれる。
 ジェフリー・アーチャーとは、普段会うことはなくても、猫を通じて親しみと友情を感じる。
 破天荒と言われようとも、波瀾万丈で、彼らしいダイナミックな作家人生を邁進してほしいと思う。


  
 写真:オリバーと筆者/オリバーは、抱き上げられるは好きじゃない。 でも、記念撮影に
     つき合ってくれた。 背景に見えるのはアーチャー邸の一部。 (2003年11月撮影)
     写真にカーソルを合わせると映像がロール・オーバーします。

 参考:アーチャー家の庭、愛猫スタンレーとオリバーが登場するウェッブ・ページ・リンク
一覧

 「イギリス猫エッセイ」 「ケンブリッジ通信11号」 「ケンブリッジ通信13号」 


 「ケンブリッジ通信16号」 「フォト・ダイアリー002」
  「フォト・ダイアリー006」

 「フォト・ダイアリー010」  「フォト・ダイアリー011」  「フォト・ダイアリー022」

 在英29年の創作活動を支えた「構成学」
   構成学の展開U/日本デザイン学会 2003年3月

 
在英29年の創作活動を支えた「構成学」

                                                 文  志村 博


  イギリスの地に初めて降り立ったのは、今から約29年前になる。
 約3年間ケンブリッジ州立芸術工科カレッジ(Cambridgeshire College of Arts and Technology)で
 デザインやシルクスクリーンを学んだ後、フリーランス・アーティストとなり、版画作家、映像作家として
 今日もイギリス・ケンブリッジを拠点に創作活動を続けている。

  「構成学」を学んだのは東京教育大学時代で、主に学部の4年間であるから、
 今から三十数年も前のことになる。その当時は、まだ「構成学」とは言わなかった。大学に入学して、
 すぐに登場した唯一の構成専攻専門課程が「構成実習」だった。
 毎週出される課題に、新入生であった私達は夢中になってケント紙に向かい、ポスター・カラーや
 烏口と格闘した。 配色や分割など、造形の基礎を次々と学びながら、ポスター・カラーで色を作り、
 烏口で線を引き、平面をむらなく塗ると言うような、基本的なプレゼンテーション技術の
 トレーニングも重ねた。

  その後、時代は大きく移り、プレゼンテーション分野でも革新的な技術が次々と開発され、
 すっかり様変わりしてしまった。 現在では、線を引くこと、色を塗ることから始まって、どんな複雑な
 分割も塗り分けも、PCモニター上でのマウス操作で、自由に作画をコントロール出来て、
 あっと言う間にむら一つなく仕上げてしまう。私自身は入学当時から映像的なものに強く惹かれ、
 写真の暗室にいることが多くなった。後半はシルクスクリーンの写真製版による表現に夢中になった。
 決して、構成実習をまじめにやっていた学生ではなかったが、絵の具皿にポスター・カラーを取り分け、
 少しづつ水を加えながら調色し、丸筆を使って烏口に含ませ境界線を引き、平筆で色を塗り分ける
 作業を、今も懐かしく想い出す。 後にこの訓練が、予期せぬ分野で大きな力を発揮するとは、
 その時は思いもしなかった。

  ケンブリッジ州立芸術工科カレッジでは、主にグラフィック・デザイナーを養成するコースに
 所属していた。 実戦に即したデザイン教育が中心で、グラフィック・デザイナーを目指す学生が
 ほとんどだった。 デザイン・ギルドの資格試験を受ける学生もいて、みんな真剣だった。
 毎週出されるデザイン・プロジェクトを、決められた時間内で、最終プレゼンテーションまで仕上げる
 訓練が繰り返された。カレッジでは教室内にプレゼンテーションに必要なすべての材料が
 備わっていた。学生たちは所定の棚から、自由に材料を取り出して使っていた。ポスター・カラーや
 アクリル絵の具、カラー・インクはほとんど使われることはなく、カラー・トーンやスクリーン・トーンを
 ふんだんに使い、レタリングはすべて写植やレトラセットで素早く組上げられた。
 試験対策としてばかりでなく、実際の仕事の中でもスピードが要求されるようだった。

   構成実習で、主にポスター・カラーを使ってプレゼンテーションをしていた頃から、
 すでに数年以上が過ぎていて、新しい時代になっていた。 プレゼンテーションの方法が
 変ったところで、デザインや造形の基本が変るものではない。私は時々、新しいプレゼンテーションの
 素材を駆使して構成実習で培った数学的な分割の"冥利"や、繊細な配色の"技"を披露しては、
 他の学生たちだけではなく、先生たちも驚かせていた。私が在籍していたコースは、
 資格試験に即した1年履修を基本として、二十歳前後の若者が多く学んでいた。 このコースに
 参加する前に、美術基礎コースなどを済ませている学生も多く、構成実習のような基礎的な
 造形教育は組まれていなかった。2年以上在籍する学生はいても、印刷に関わるデザイン全般を
 こなすため、様々な実務訓練の繰り返しであった。
 それらに関わるマネージメントや法律の授業まであった。

  私にとって、デザイン実習以外は、ほとんどが目新しい分野であった。 イギリスで認知されている
 グラフィック・デザイナー資格試験に興味のなかった私は、自由気ままに関連するコースとしての
 印刷実習、製本実習などを多く履修させてもらっていた。特に印刷実習では、オフセット印刷や
 スクリーン印刷すなわちシルク・スクリーン、そしてレター・プレスと呼ばれる活版印刷まで、
 本格的な設備での印刷実技を、各専門技官の指導で、次々と経験することが出来た。
 驚いたことに、私が受けた夜間の印刷実習では、学生たちは年齢も様々で実際に印刷技術者を
 目指す学生は少なく、趣味として印刷を楽しむ学外の「学生」の方が圧倒的に多かった。
 特にレター・プレスの実習では、その頃すでに実際の印刷現場から完全に姿を消しつつあった
 金属の活字を、一本一本拾い組上げた版を校正機で刷る作業を、みんな楽しそうにやっていた。
 そのための新しい活字を鋳造する機械は毎日稼動していたし、活字の棚と組版の作業台、
 校正機だけの大きな実習室もあった。

  印刷実習の中では、スクリーン印刷がもっとも真剣に取り組んだ科目であった。
 教育大学時代から、"シルクスクリーン"として、スクリーン印刷の写真製版などに取り組んでいたが、
 ここで見たスクリーン印刷の写真製版システムや専用インクは全く新しいものであった。
 その精緻な表現力は、私にとって初めての経験で驚きの連続であった。技術の習得自体は
 さして難しいものではなかった。私は時間の許す限り作品を作ることに没頭した。
 出来上がったものは、製本実習で本に綴じたりしていた。
 後の活動の中心になる"シルクスクリーン版画"としての意識はなかった。
 このスクリーン印刷の実習でも、私の作り出す作品は、他の学生たちとは全く違っていた。
 製版過程での色分けの方法、写真映像をベースにした構図や配色は、技官たちの想像も
 超えたものだったらしい。制作途中では私が何を刷ろうとしているか誰も理解できなかった。

  スクリーン印刷用インクの調色は、構成実習で繰り返し取り組んだポスター・カラーの調色作業と
 全く同じものだったし、複雑な刷り版の組み合わせや配色も自由にコントロール出来た。
 これはまさに4年間にわたる構成実習での基礎造形の理論面と、それに伴う技術的なトレーニングの
 結果であると確信している。私がスクリーン印刷実習で作った"作品"は、他の学生たちが
 欲しがったし、技官達は大事に保管して、他の授業などに活用していた。

  その後、イギリスに留まり、シルクスクリーン版画作家としての活動を始めることになるが、
 この時の経験がきっかけになったことは言うまでもない。在英15年が経過した頃から、
 版画作家としての活動だけでなく、日本向けのTV番組の制作に参加する機会が多くなり、
 独自にビデオ映像を撮り、番組を作るようになった。このことは、映像メディアの世界が大きく広がり、
 TVメディアも幅広く映像素材を求めるようになったからであるが、同時に小型ビデオ・カメラの
 技術的な進歩によるところが大きい。それまでのTV番組制作は、専門家集団のチーム・ワークでのみ
 遂行が可能で、とても個人的な技量で完結するものではなかった。

  私はイギリスでの版画作家活動を続けながらも、当時小型化に成功した高画質S‐VHS
 ビデオ・カメラで映像制作を始めた。このきっかけも友人の為に撮った留学プロモーション・ビデオ用の
 素材映像であった。このVTRを見た専門の編集者が"これは使える"と判断したことによる。
 私自身はビデオ映像を撮る専門的な訓練は一切受けていないが、動画であっても、
 造形の基本は同じである。ファインダーのフレームに、バランスよく対象を切り取る作業には、
 コンポジション感覚が必要であり、構成実習での基礎訓練が大きく役に立っている。

  現在は動画だけでなく、写真も"作品"として展覧会発表するようになった。
 「構成学」の素晴らしさは、オールマイティの"ソフト・ウェア"であることにある。どんな分野であれ、
 造形的な仕事をする場合、あらゆる過程で無意識のうちに、この"ソフト・ウェア"機能を活用している。
 「構成学」自体は限られた守備範囲を持たない、強力で汎用性の大きい基本ソフトなのである。
 意識するしないに関わらず、私の在英29年の創作活用を陰で支え続けて来たのは
 「構成実習」であったことは間違いない。


 ティー・ガーデン「ジ・オチャード」
 
 GOR/メディカル パースペクティブス/2000年、夏号(第5号)

  
20世紀の文化を育んだ
   ティー・ガーデン「ジ・オチャード」                              
                                            Tea Garden“The Orchrd”

                                          文・写真・表紙写真  志村 博



  時は1897年、5月のある晴れた日だった。 澄みきった空に羊のような白い雲が所々に浮かんで、
 爽やかな晩春の風が新緑の牧草地に吹き渡っていた。  
 
   ロンドンから北に約90キロ、世界的に有名な学園都市ケンブリッジがある。
 この街の中心部には伝統的なカレッジが点在し、その合間を縫うようにケム川が流れている。 
 このケム川沿いの散歩道を、数人の学生が3キロほど南にあるグランチェスター村を目指して
 歩いていた。 彼らは陽気だった。天気の所為だけでなく、数日前に学年末試験が終わった開放感に
 包まれていたのだ。

  学生達はのんびり歩きながら、大いに語らい笑い声も絶えなかった。かつてはあのニュートンや
 ダーヴィンも好んで歩いたフットパスを一時間程歩いてきた時、なだらかな丘の上に牧歌的な
 小さな村グランチェスターが見えてきた。彼らは丘を登り、2軒のパブの間を抜けて、
 萱葺きのコテージが並ぶ村に入った。村外れの教会の脇を通り、再び川沿いの牧草地に出るため
 坂道を下りて行った。

   近道をしようと、生垣の切れ目から丘を下りる細い小道に足を踏み入れた。
 すると、辺り一面甘い香りが漂い、薄ピンク色の花で満開の木々の園に迷い込んでしまった。
 学生達にとって、そこはまさに天国のような光景であった。 彼らは夢見心地で薄ピンク色の木陰を
 歩き回った。 これらの木々は時を遡ること30年、この地に植えられたリンゴの樹木で、
 その頃すでに果樹園として、かなりの収穫をあげるようになっていた。


  
 5月のティー・ガーデン 「ジ・オチャード」はリンゴの花が満開となる。 

   のどの渇きを覚えた学生達は果樹園の中にあった農家のドアをたたき、お茶を所望した。
 その頃、この果樹園の世話をしていたスティーブン夫人は快く引き受け、 突然の闖入者である
 学生達の為にお茶を用意した。学生達は、お茶を満開のリンゴの木の下で飲みたいと、もう一つの
 要求をした。お茶のポットとカップはお盆にのせられ学生達はそれらをリンゴの木の下に運び、
 心行くまでお茶を楽しんだ。

   カレッジに戻った彼らはこの夢のような経験を仲間たちに吹聴した。この噂は広まり、
 次々と学生達がこの果樹園でのお茶を目当てに、グランチェスターを目指すようになる。
 当然のことのように、農家のドアをたたきスティーブン夫人にお茶を所望する。
 はじめの内は押し寄せる学生達に閉口した夫人だが、3人の娘達を手伝わせて「お茶庭園」を
 開業してしまう。 これが、ティー・ガーデン『ジ・オチャード』 の誕生である。

   その後、このティー・ガーデンは大学人だけでなく多くの人々を魅了し、営業を続けることになる。
 20世紀の初頭になると、このティー・ガーデンを中心にたむろする若者グループが出てきた。
 後に彼らは学者、芸術家、文人、詩人、哲学者として20世紀の文化形成に大きな影響を及ぼす
 ことになる。『数学原理』を著わし、後にノーベル文学賞を受けるバートランド・ラッセル、
 世界的な経済学者として名を為すメイナード・ケインズ、その後、斬新な文学作品を次々と発表して、
 新しい時代の象徴となったE.M.フォースターやバージニア・ウルフ、哲学者のヴィトゲンシュタイン、
 英国で最も愛されている詩人ルパート・ブルック、画家のオーガスタス・ジョンなどである。

  
 左・満開のリンゴの木の下、デッキ・チェアーで寛ぐ。 右・スティーブン夫人と3人の娘達。

   これに続く時代も、実に多くの人々に愛されてきた。現代でもここのファンは多く、
 王室のチャールズ殿下や宇宙物理学者のスティーブン・ホーキンズ博士、映画監督の
 アッテンボロー氏などなど枚挙に暇がない。何を隠そう、この私も約10年前からグランチェスターに
 アトリエを移し、ここをイギリスでの活動の本拠地としている。毎日このティー・ガーデンの中を
 散歩しながら、ここに集った偉大な人達に思いを馳せる。

   私のアトリエはティー・ガーデンの向かい側にある。移ってきた頃、ここは重大な閉鎖の危機に
 瀕していた。私はこの歴史的なティー・ガーデンを救う運動の手伝いをした。
 冒頭のティー・ガーデン誕生の逸話は、その時に聞いた話を元に私が創作したものである。
 幸いにもティー・ガーデンは閉鎖の危機を脱し、今では、かつてないほどの賑わいを見せている。
 19世紀の終わりに誕生したティー・ガーデン『ジ・オチャード』では20世紀の文化推移と共に
 ゆったりとした時が流れ、今や21世紀に融け込もうとしている。


 詩人ルパート・ブルック
 
 GOR/メディカル パースペクティブス/2000年、秋号(第6号)
 
  
  
永遠のイングランドより、
  詩人ルパート・ブルック
                                     
Forever England “Rupert Brooke”

                                           文・写真・表紙写真  志村 博

   アイルランドの詩人W.B.イェイツは早逝の詩人ルパート・ブルックを
 「イングランドで、彼ほどの美男子は他にいない。」と断言した。
 イギリスはバイロン、テニソン、ワーズワースなど、世界的な詩人を多く生んだ。
 しかし、ルパート・ブルックという今世紀初頭にカリスマ的に登場した詩人の名前は日本ではほとんど
 知られていない。ましてや、日本語に訳された彼の詩集が出版されたなどという話も聞いた事がない。

   イギリスが生んだ世界的な文学者の8割はケンブリッジ大学の出身者である。
  これは全くの私見なのだが、"グランチェスター"というケンブリッジ郊外にある
小さな村の存在が
 この事と無関係ではない。 これらの文人達はグランチェスターを こよなく愛した。
 ミルトンはグランチェスターで詩作に耽り、ワーズワースはグランチェスターを詩に歌い、
 バイロンはここで散策をしたばかりでなく、ここを流れるケム川でよく泳いだ。
 この川筋の一帯は今でも「バイロンズ・プール」と呼ばれる。

   さて、話を元に戻そう。 わが詩人ルパート・ブルックもご多分にもれずケンブリッジ大学の学生で
 あった。 伝統のあるキングス・カレッジに属し成績は抜群で将来を嘱望される学生であった。
 ところが、大学院に進む頃になるとその当時流行った政治的な学生運動に巻き込まれる。
 当然のこと学業は疎かになり成績は下がる。 心配した指導教官は彼に騒がしいカレッジ生活を離れ
 グランチェスターに移り住むことを勧める。 グランチェスターはケンブリッジの中心から僅か3キロしか
 離れていないのに、のどかな田園に囲まれた牧歌的な村である。

  
 多くの文人や学者を魅了したグランチェスター・メドーの初秋風景とルパート・ブルック。

   1909年、大学院に進んだ彼はこの村に移り住む。その頃ティー・ガーデンとしても営業をしていた
 果樹農園「オチャード・ハウス」が彼の最初の下宿先となった。 ここでの生活は彼の疲れた心と体を
 癒し、彼はこの村の生活を心から愛するようになる。 初夏の頃は毎日イチゴと蜂蜜だけを食べ、
 村の中を裸足で歩きまわり、カレッジのあるケンブリッジへはケム川をカヌーで通学していた。
 2年後、その隣の旧牧師館に移り住み、3年半をこの村で過ごす。彼の人間的魅力はここに多くの
 才能ある若者達を惹き付ける。やがて、彼を中心に学者や芸術家が集いグランチェスターを舞台に
 
新しい文化が花開いて行く。 この頃から、彼は学生ではあるが、詩人・文芸評論家・劇作家として
 文学作品を発表し始める。 彼自身の詩集が出版されるのは彼の死後であるが、類まれな才能と
 若さは美しく韻をふんだ詩を次々と生み出し、世間の注目を浴びるようになる。

  20世紀初め、ヨーロッパを第一次世界大戦の暗雲が覆い、戦況はますます悲惨な状況になって
 いった。 彼は一兵士として従軍する。 祖国を離れ戦う兵士が切なく祖国イングランドを想う詩
 「The Soldier」を発表する。 この詩はイギリス人の心を打つ。 彼は若くして国民的な名声を得る。

  
 カレッジの橋が架かるケム川筋と、メドーの合間を流れるケム川筋、ブルックはカヌーで通学した。

   しかし、なんと言っても、彼を、そして、この"グランチェスター"を有名にしたのは
 「The old vicarage、Grantchester」であろう。 この詩は1912年、旅先のベルリンのカフェで書かれた。
 突然のホームシックに襲われた彼は、グランチェスターの日々を想い、帰りたい気持ちが募り一気に
 書き上げる。 書斎の窓から見える美しく手入れされた花壇、緑一面の牧草地、
 ゆったりと流れるケム川、グランチェスターに広がる空を想い描きながら切々と望郷の念を詠う。
 
   タイトルの「ジ・オールド・ヴィカレージ」とは2度目に下宿していた旧牧師館で、私のアトリエの
 斜め向かいにあり、現在は作家ジェフリー・アーチャー卿の本宅である。
 
  英語を母国語としない私には、英詩の細微なニュアンスは解らない。 しかし、詩の朗読会に参加し、
 美しい韻文の流れを何度も耳にするうちに、その想いが痛いほど感じられるようになって来た。しかも、 
 彼が詩に詠っている情景は、私が毎日のように目にしているグランチェスターの風景なのである。

   第一次世界大戦の最中、彼が従軍する部隊はエーゲ海で作戦を展開する。
 彼は唇を一匹の蚊に刺された事により敗血症に罹る。 手当てが間に合わず、
 1915年、4月23日、27歳の若さでこの世を去る。 彼の亡がらはギリシャ領スキロス島のオリーブの
 根元に葬られる。 イギリス中が彼の死を悼んだ。

   去年の夏、ティー・ガーデンのオーナー、ロビン・カレン氏は私財を投じて小さな記念館を作り、
 ルパート・ブルック協会を設立した。私も今までの功績により、初代の名誉会員に推挙された。
 と言っても、"功績"とはここで行われるイベントのビデオ撮影をボランティアで引き受けてきた事に
 よるのだが、私にとってこんなに楽しい役目はない。 
 
  彼の死からちょうど85年目にあたる今年4月23日、彼の愛したグランチェスター・メドーの真中に
 ステージを作り、本物の風景を背景にし詩の朗読が行われた。 もちろん、私がビデオ撮影を
 
引き受けた事はご推察の通りである。


 愛のグランチェスター
 
 GOR/メディカル パースペクティブス/2000年、冬号(第7号)

  恋する乙女が母に宛てた手紙                 
    愛のグランチェスター            
                                          Grantchester Love Story

                                         文・写真・表紙写真  志村 博  

  1999年10月の事だった。イギリスの新聞や雑誌がその頃明らかになったある新事実について
 様々な解釈で記事を掲載していた。それらの記事には必ずと言って良いほど美男美女の
 ツー・ショット写真が大きく載せられていた。 男性は戦後もっとも活躍したイギリスの詩人、
 テッド・ヒューズ。 女性はアメリカの女流詩人、シルビア・プラス。 この絵に描いたような詩人の
 カップルは1957年結婚した。 しかし1963年、ロンドンの自宅でプラスは育ち盛りの二人の子供を
 残し突然ガス自殺をしてしまう。 この世紀の結婚は悲劇的な結末を迎える。
 原因はヒューズの女性関係であったとして、彼は一切の責を負う。当然のことに世論はヒューズを
 激しく責めた。 ヒューズはこのことについて自ら語ることはなかった。  

  1998年、テッド・ヒューズが65歳で亡くなった。彼は膨大な数の手紙や未公開の文献を
 残していた。 彼の死後、これらの手紙類の内容が少しずつ明らかにされると、意外な真実が
 浮かびあがり、マスコミを騒がせることになる。 恥ずかしながら、私はテッド・ヒューズと
 シルビア・プラスについて、その時までほとんど知らなかった。
 だから、"プラスにも男性関係があった"とか、"膨大な遺産の行き先が微妙になる"とか、
 新聞などに書き立てられた記事の内容にはあまり興味はない。  


  
 左・イギリスの新聞に載ったテッド・ヒューズとシルビア・プラスの写真。
 右・初冬のグランチェスター・メドー早朝風景、テッドとシルビアもこの牧草地をよく散歩した。

  しかし、プラスがイギリスからアメリカの母親に書き送った手紙の内容を読んだ時、
 はっきり言って驚いた。 なんと、"グランチェスター"が頻繁に登場するのである。
 テッド・ヒューズとシルビア・プラスは、1955年ここケンブリッジで出会う。
 その時、ヒューズはケンブリッジ大学・ペンブロック・カレッジに属する大学院生、プラスは
 アメリカからケンブリッジ大学に留学していて、当時は女子カレッジだったニューナム・カレッジに
 属する大学生だった。 二人はあるカレッジのパーティーで知り合い意気投合する。
 
  かれらは、ケンブリッジから南に3キロほど続くケム川沿いのフットパスを歩き、
 牧歌的な村"グランチェスター"に到る。 この村はずれにあるティー・ガーデンで二人は
 アフタヌーン・ティーを楽しむ。 そんな出来事をプラスは母親にこんな風に書き送っている。 
 『ルパート・ブルックの詩を知っているでしょ? ほら、あの春にはリンゴの花が満開で、その木の下で
 お茶を飲むっていう、あの果樹園で私達はお茶をしたの。 そこでは時計は3時10分前で
 止まったままになっていて、最高に美味しい琥珀色のクローバーの蜂蜜とスコーンがあるの。』と、
 ブルックの詩の有名な一節を引き合いに出して報告している。


 『テッドと私は緑の自然溢れるケム川を平底舟に乗って遡って行ったの。 グランチェスターに着いて、
 あのリンゴの木の下で紅茶と蜂蜜と、そして、サンドイッチを食べたわ。』知り合ったばかりの
 若い二人はグランチェスターを舞台に愛を育んで行く。 その当時の二人の写真が新聞に載っていた。
 若いテッドは背が高く知性溢れる男前、シルビアは笑顔の愛らしい美人で、まさに似合いの
 カップルである。 2年後、二人はケンブリッジで結婚をする。グランチェスター・メドーにほど近い
 エリティスレー・アベニューに小さな家を借りて住み始める。 結婚後も母への手紙は続く。

  『私達は昨日、森や畑を抜け、平らな野原を横切り、25キロも歩いたの。月明かりに照らされた
 グランチェスターや牛が眠る牧草地を通って家に帰ってきたわ。』 彼らはここケンブリッジで幸せな
 
愛の日々を送っている。 もし、彼らがこの後ロンドンに移り住むことがなかったら、
 あのような悲劇的な結末にはならなかったのではと勝手に思ってしまう。

 
  
 夏から秋にかけて、グランチェスター・メドーの牧草地には牛が放牧されている。

  『今朝は4時半に起きたの、テッドも一緒にね。そして、グランチェスターに向かって散歩に出たの。
 動物や鳥達もたくさんいる、もっとも美しい世界の中にいて、心休まり、喜びを感じたわ。
 私達は牧場で草を食んでいる牛さん達にモーモーって挨拶をしたの、そうしたら、牛さん達はまるで
 催眠術にかかったみたいに、みんなこっちを向いたの。 そして、20頭くらいの牛さんが後を
 ついて来て、牧場の柵の所に集まり、私達のことを熱心に見詰めているの。 私は、柵越え用の
 段の上に立って、チョーサーの「カンタベリー物語」の知っている限りを20分にわたり大きな声で
 朗詠したの。 こんなに知的で熱心な聴衆を私は知らないわ。』 テッドもこの出来事を詩に綴っている。
 しかし、私はシルビアの母に宛てたこの手紙の方がはるかに素晴らしいと思った。  

  早朝の光の中、カメラと三脚を担ぎ、私もよくこの牧場に出かける。牛さんにモーモーとは
 挨拶しないが、みんな私の周りに集まってくる。 大事なカメラに鼻をつけるやつもいるから油断が
 
出来ない。 ハリウッドがこのテッド・ヒューズとシルビア・プラスの物語を映画化しようとしているらしい。
 もし、実現すれば、私のちっぽけなビデオ・カメラではなく、シネラマスコープの大型映画用カメラが
 この美しいグランチェスター・メドーの早朝風景を映像に収めるのだろうか。


 頭脳と閃きのグランチェスター
 
 GOR/メディカル パースペクティブス/2001年、春号(第8号)

  緑の城砦に囲まれた学園都市         
    頭脳と閃きのグランチェスター  
                                 Flashes of Geniuses in Grantchester

                                          文・写真・表紙写真  志村 博  

  「世界で最も高度な頭脳が集中している場所はケンブリッジである。」と、ビル・ゲイツ氏は語った。
 現在、マイクロソフト社はケンブリッジに拠点を作ろうと進出を図っている。 そのため、近郊の
 不動産価格が上昇して困ると友人がこぼしていた。

  近代科学の基礎を作り上げたのはケンブリッジだといっても過言でない。 数年前、
 ケンブリッジ大学がそれまでに獲得したノーベル賞の数を数えてみたら66であった。毎年、記録を
 更新しているので、現在は70を優に越えているのだろう。 ここでは大したニュースにならない。
 そう言えばビル・ゲイツが巨万の富を成したネタであるコンピューターもここケンブリッジで生まれた。
 いや、厳密に言えばケンブリッジから3キロしか離れていないが、グランチェスターである。
 コンピューター生みの親の一人であるアラン・チューリングはケンブリッジの学者であったが、
 ケム川沿いのグランチェスター・メドーをジョギングしている時に、人間の脳の働きを電子回路に
 置き換える"人口頭脳"の発想が閃いたそうだ。バートランド・ラッセルもグランチェスターに移り住み、
 10年かけて「数学原理」を書き上げた。彼は毎日ここの牧草地を歩き構想を練ったと言う。
 「私はグランチェスター・メドーに茂る草の一葉一葉すべてを知っているのだ。」と哲学者らしい述懐を
 している。書き上げた論文はあまりの重さであったため、庭仕事用の手押し車に乗せて、
 ケム川沿いのフット・パスを押しながら大学印刷局に運んだ。


  
 学生達は春が来るのを待ちかねたように徒歩や自転車だけでなく、パントと 呼ばれる平底舟で
 グランチェスターにやって来る。

  世界的に有名な学園都市ケンブリッジは人口わずか10万の小都市である。そのうち大学人口は
 1万1千人。これには意味がある。ケンブリッジ大学が出来た約700年前、ケンブリッジは中世の
 商業都市として繁栄を謳歌していた。その後、何世紀にもわたり新興勢力の大学と既存勢力の
 街とはケンブリッジの"覇権"をめぐり激しく競いあうことになる。流血の惨事になった事も
 1度や2度ではなかった。500年程前からは大学は王室の庇護もあり、街の持っていた利権を次々と
 奪取し勢力を拡大する。その後、次第に街をコントロールするようになって行った。それは今日も
 続いている。街の中心部や街を取り囲む周辺の土地はほとんどすべて大学及びカレッジの
 所有地である。大学はケンブリッジの周辺に工業地帯が進出することを嫌いグリーン・ベルトと
 呼ばれる開発規制地域で街を取り囲んだ。これはまるで、緑の城砦を街の周囲に築いたような
 ものである。街は拡大を阻まれる。

  しかし、この緑の城砦は自由で独創的な研究には、必ずしも有益とは言えない慌しく移ろう
 外世界から街を守り、学究の徒に心地よい聖域を生み出した。これは同じく伝統の学園都市
 オックスフォードが自動車産業の進出を許したのとは大きく異なる。この産業誘致は
 オックスフォードに富をもたらしたが、同時に労働人口の流入も起こした。街は人口40万の中都市に
 膨らむ。ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の規模はほとんど同じであるが、大学の性格は
 大きく分かれた。ケンブリッジ大学は自然科学や芸術の分野で世界的な功績を数多く生み出し、
 オックスフォード大学は名うての政治家を世に送り出した。オックスフォード大学の方が外の世界に
 開かれた大学になったとも言える。しかし、どんなオックスフォード贔屓でも、街や街を取り巻く
 自然の美しさ、ノーベル賞受賞者数の圧倒的な差は認めざるを得ないだろう。
 
  
 ケンブリッジの中心部に点在する大学やカレッジの建物と周辺に広がる緑地帯。

  さて、話をグランチェスターに戻そう。ここに100年以上の歴史を持つ、ティー・ガーデン
 "ジ・オチャード"がある。19世紀の終りに大学人の気まぐれな行為によって、果樹園が
 ティー・ガーデンになった場所なのだが、20世紀を通して多く大学人に愛された。ジ・オチャードの
 パンフレットにここを訪れた世界的な偉業を成した人たちのリストがあった。名前を目で追って行くと、
 私の知らない名前もたくさんあるのだが、原子物理学のラザフォード、経済学のケインズ、
 宇宙物理学のホーキング、その中に分子生物学の祖、クリックとワトソンの名前があった。
 1950年代は今のような車社会ではなかったので、大学人は川沿いの小道を自転車にのったり、
 歩いたり、またジョギングしながらグランチェスターにやって来た。そして、何時間も
 このティー・ガーデンやグランチェスター・メドーで時を過していたらしい。様々な分野の頭脳が集まり、
 気が向けば何時間でも議論をしていた。その中から研究室では生まれそうもない奇抜な発想が
 閃いたとしても不思議ではない。

  
 ノーベル文学賞のバートランド・ラッセルはかつて水力製粉所であったこのケム川沿いの
 ミル・ハウスで、論文を書き上げた。

  半世紀も昔に、二重らせん構造になった核酸塩基の単純な配列、すなわちDNAが生命の根源で
 あるなどと唐突な事を思いつくなんて、彼らがグランチェスターでお茶を飲んでいた時に違いない、
 と考えたのはグランチェスター贔屓の私一人の妄想であろうか。神をも恐れぬこの提唱が科学的に
 立証されるには、その後20数年を要する。何はともあれ、ケンブリッジが街の拡大発展と引き換えに
 守った自然環境は世界的頭脳集団に後の世を変えるような"閃き"をもたらしたに違いないのだ。


 隣人アーチャー
   波/新潮社 1999年2月

 
隣人アーチャー

                                      文・写真  志村 博 (写真はHPのみ)

   それは、とある日曜日の遅い朝だった。 ドアベルが突然鳴った。
 ここは英国ケンブリッジ市郊外の静かな村-グランチェスターにある私のアトリエである。

   市街地からは少し離れたカントリーサイドであるし、アポなしで私を訪ねる人は無く、ドアベルを
 鳴らすセールスマンも来ない。 ある時などは、突然の訪問者にドアを開けたら、見知らぬ男の人が
 立っていて、彼の後ろには所在なげな“ロバ”がいた。 「そこで迷子のロバを保護したけど、
 お宅のじゃないかな」と、聞いて回っている通りがかりの農業トラクターの運転手だった。
 ケンブリッジ市の中心から僅か3キロしか離れていないのにこんな牧歌的な場所である。
 因みにこのロバはペットとして飼っている近所の老夫妻の元に帰って行った。

  
 左・アトリエの前の道、右手がアーチャー邸の塀。 右・アーチャー邸と庭の一角

   はたして、こんな日曜の朝、ベルを鳴らしたのは誰だろうとドアを開けるとそこにジェフリーが
 すまなそうな顔をして立っていた。 そして、こう言う。

   「おはようヒー口、実は家内と出かける所なのだが、車が動かないんだ。 どうもバッテリーが
 上がってしまったらしい。手伝ってくれないか」“ヒー口”とは私の事である。
  
   とりあえず私は愛車のエンジンを掛け、道幅10メートルもない家の前の道に出て、
 すぐ斜め向かいの家の門の中に乗り入れた。 何を隠そうこの"ジェフリー"とは作家で、政治家で、
 貴族の称号をもつジェフリー・アーチャー卿であり、車を乗り入れた家はアーチャー家の本邸である。
 そこではメアリーが車のボンネットを開けて待っていた。 私は早速ケーブルを私の車の
 バッテリーに取り付け、その片端をメアリーに手渡した。 しかし、少し急いでいたメアリーは
 ケーブルをショートさせてしまい、派手にスパークが飛び散った。 それでもやがて車はエンジンを
 始動させ、夫妻は無事出かけて行った。

   “メアリー”とはレディーの尊称を持つメアリー・アーチャー女史でジェフリー・アーチャー氏の
 奥方としてだけでなく、ケンブリッジ大学で教鞭を取ったり、テレビのニュース番組で
 コメンテーターとして出演したりと多忙な方である。

  
 左・筆者とアーチャー夫妻。 右・アーチャー家の庭で、愛猫とカメラに収まる夫妻

   その頃、私はこのアーチャー邸に今世紀初め住んでいた詩人をテーマにして日本の
 衛星放送向けのドキュメンタリー番組を作っていた。 と言っても、私一人で小型のビデオ・カメラを
 持ち歩き、自分の興味ある英国文化を勝手に紹介する趣味的かつ独断的 な番組なのだが、
 メアリーは邸内を自由に撮影する許可をくれたし、私のTVインタビューに付き合ってくれた。
 そして、気の乗らなさそうなジェフリーまで私のカメラの前に引っ張り出してくれたのである。

   この時テーマにしていた詩人というのは英国で最も人気があると言われる、今世紀初頭に
 登場し若くして逝った、ルパート・ブルックである。 彼はケンブリッジの学生時代、
 グランチェスターに移り住み、このケム川沿いの小さな村をこよなく愛した。

   彼の代表作はこの村での生活を懐かしく綴った詩『ジ・オールド・ヴィカレージ(旧牧師館)-
 グランチェスター』である。 現在のアーチャー邸は17世紀から19世紀終りにかけて牧師館として
 使われた歴史的な建物であり、20世紀初めまだ学生だったブルックが下宿していた頃から
 この家の屋号は『旧牧師館』となり、この詩のタイトルになっている。


  
 観客は役者を取り囲むように椅子や雛壇に座る

   ブルック所縁のアーチャー邸の広大な庭では、その当時毎年夏に彼の詩を吟じる野外劇が
 演じられていた。 これは彼の詩を愛するアーチャー家がチャリティー活動として行い、
 彼らの友人で俳優のマーク・ペイトン氏が演じる一人芝居である。
 この野外劇が開かれる日の朝、私は手伝いに行った。
   庭に入って行くと、既にジェフリー、メアリーと大学生の息子さん達が作業を始めていた。
 観客は役者を取り囲むように組み立てられた雛段に座って観るのだが、その雛段の組み立てを
 家族でやっている。 早速私も作業に参加したが、半端じゃない肉体労働である。
 足場を組み、座るための横板を渡して行く。私はアトリエに取って返し、カメラを持ってきて
 アーチャー一家が力を合せて働いている姿をビデオに収めたい衝動に駆られたが、
 そんな余裕はなかった。 それがやっと終わると、お客様たちがアフタヌーンティーを楽しむための
 テーブルと椅子を次々と庭に並べてゆく。 近所の友人が何人か手伝いに加わったとは言え、
 午前中みんな休みなく働いた。

   その日の午後は清々しい夏の晴天に意まれ、野外劇は最高の出来で大盛況であった。
 劇が終わった後がまた大仕事である。 チャリティーに協力してくれた観客にティーとサンドウィッチを
 振る舞う。 私はお茶を注ぐ係となり、大きなティーポットで数百人分のお茶を注ぎ続ける。
 メアリーは台所で立ち働いていたかと思うとテーブルの間を回ったりしている。
 ジェフリーは門の所で募金の受付などをやっている。


  
 アーチャー家の庭の芝生で、ブルックの一人芝居を演じるマーク・ペイトン氏

   その日のチャリティー・イベントは大成功に終わった。 片付けも全て終わりホッとした気分で、
 私は川遊び用のカヤック型カヌーを担ぎケム川に向かった。 夏の日は長く6時を過ぎても太陽は
 まだ西の空で輝いている。 アーチャー邸の門の前を通り、ジェフリーがあの綴密な上、
 豪快でテンポが速く、意外な結末が待っていたりする小説を書く書斎の脇の小道を抜け、
 古い水車近くの川岸からカヌーを水面にすべり入れ漕ぎ出した。 木々が覆うように茂り、
 幅7-8メートル足らずの緩やかな川筋はアーチャー邸の庭に沿って続いている。

   50メートルも漕ぎ進んだろうか、とちの木が並んでいる辺りにアーチャー一家が水入らずで
 川辺に佇み、対岸に巣をもつ白鳥の親子を跳め、語らっている姿がズーム映像の様に目に入って
 きた。 カヌーを出すたびにまず始めに通る水路で自然に囲まれた美しい秘密の場所なのだが、
 その日は特別素敵な光景を見たと思った。
 
 (英国ケンブリッジ市在住、シルクスクリーン版画アーティスト)

 
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